今更ながら、漫画「岳」を読みました。読み終えてすごい考えさせられるような、ラストでした。「感動した!」という意見もあれば、「ひどい」と言われたり。いわゆる賛否両論あるラストということで、自分なりの考察をしていこうかと思います。
注意 この記事は漫画「岳」の最終巻までのネタバレを含みます。なお考察は個人の感想です。
以降重大なネタバレあるので、漫画岳最終巻まで読んでから見てくださいね。
結局三歩は最後どうなったのか?
最終巻のあらすじをざっくり紹介。
「岳」最終巻(18巻)のあらすじ
「岳」物語のラストの一番のポイントは、「三歩の生死が作中で明確に描かれていない。」というところです。
ゆえに、生存説と死亡説の両方の解釈ができます。
三歩 生存説の考察根拠
それでは、三歩が生存していると考察できる部分を見ていきましょう。
- 死亡した明確な描写がない
- 「さ、帰るか」と天候の回復
- 欠けたはずのコーヒーカップがラストシーンで直っている
以上の点が、三歩生存説で挙げられる根拠ですね。自分も三歩には生きていて欲しいのでこの3点に関して、詳しく見ていきます。
死亡した明確な描写がない
エベレスト遭難救助の最終章、そこから5年が経った後日談のどちらでも三歩が死亡した明確な描写がありません。
エベレスト遭難救助の話の最後は、三歩の「さ、帰るか」の言葉で締めくくられ、安否は不明。
後日談でも久美の回想でも、「三歩さんが北アルプスを去って5年」「この山(北アルプス)からはいなくなったけど、三歩さんは多くのものを残していった」と、生死には言及しない表現になっています。
読み方によっては「死亡したという描写がない=生きている」とも考えられるので安否を明確にしていない表現はとても意図的で、生きていると解釈してもおかしくないと思います。
「さ、帰るか」と天候の回復
最終巻「岳」エベレスト遭難救助編のラストで、三歩はエベレスト遭難救助にて二重遭難となってしまった山頂で、無線で下山を促す小田に対して「コーヒーを一杯だけ飲んだら行くから」といった言葉を繰り返します。そこに、山頂では雲が引いていく風景が広がっていき、「兄ちゃんは死なないで」と言ったナオタの姿のカットが挟まれ、空のコーヒーカップを飲む動作をする三歩の前に視界がひらき、「さ…帰るか…」とつぶやき、以降後日談に続きます。
ここでは、「三歩が正気になったこと」と「天候が回復したこと」が示唆されています。
小田との会話は、完全に高度障害と思われる意識の低下といった症状がでているような言葉を繰り返していた三歩は心身ともに生存は絶望的な状況なのは明らかでした。
しかし「さ‥帰るか…」という言葉に三歩が正気に戻った様子がうかがえます。さらに天候の回復は最後に見えた生存への希望だと考えられます。
欠けたはずのコーヒーカップが直っている
三歩がナオタからもらったコーヒーカップは、三歩がエベレスト頂上で無線をうけたときには欠けた状態でしたが、最終ページで欠けのないコーヒーカップが雪面に埋まっている描写で物語は終了します。
ここの描写、解釈が分かれるところだと思うのですがみなさんならどう解釈しますか?
ここで問題になるのが…
- ラストの欠けのないコーヒーカップはいつ、どこの時点のものか?
ラストシーンのコーヒーカップが、後日談の時のモノだとすると、三歩が無事に帰国でき、欠けたコーヒーカップを作り直したものだとも考えられます。コーヒーが温かい湯気を出しながら雪面に埋まっているのも、ティートンの山の中腹あたりでナオタを待っているところなのかもしれません。
一方で、ラストシーンのコーヒーカップが過去のモノだったり、三歩の死後にお供え的な感覚で雪面に置いたものだと考えることもできるので解釈が分かれますね。
死亡説の考察根拠
それでは、三歩が死亡したという根拠について考えます。
- 誰がどう見ても生存は絶望的な状況だった
- 後日談に三歩が全く出てこない
- 久美ちゃんが荷物を開ける状況を考える
生存は絶望的な状況だった
そもそもエベレスト頂上のラストのシーンまでで三歩はローツェ頭頂後、エベレストまで来て一度はエベレスト頂上まで救助し、もう一回遭難者のために登り返します。
標高8000m超えのデスゾーンで24時間以上の行動、凍傷必至の極寒のなかで手袋を外してロープを握るなど、あまりにも体力的に無謀な行動を繰り返していました。しかも無酸素で!
最後も、救助したオスカー隊はデスゾーンを抜けて第3キャンプまで降りてきていました。
そもそもオスカー隊が救助が行くのはかなり厳しそうだし、三歩は無酸素、自力で下山できる体力はないように見えました。
後日談に三歩が全く出てこない
当たり前のことですが、誰もが三歩が死亡したと考えるのは、三歩が後日談に全く登場することがないからです。
回想では「山を去った」という表現が使われていますが、暗に「去る」=「いなくなる」=「亡くなった」を意味しているのかもしれません。
正直初見で読んだときは私も、あの絶望的な状況と、後日談に三歩の姿がなく回想のみだったので三歩は死亡したものだと考えました。
久美ちゃんが荷物を開ける状況について考える
後日談にて、三歩の荷物から北アルプスを定点観測した雪崩や危険区域が記録されたノートが出てきたと書かれています。
この荷物は、ローツェ頭頂に向かう前に北アルプスの山にテントやかまくらを作って住んでいたため家がない三歩が、久美に預けたものと考えられます。
人から預かった荷物を開ける状況ってどういう状況か考えると、亡くなったときの遺品整理が一番に思い浮かびました。
もし、三歩が生存していたなら北アルプスに一度は顔を見せに帰ってくるのではないかと思います。そのとき久美にも会うでしょうし、預けていた荷物も受け取るでしょう。
生死を明確にしないからこそ良い
結局あーだこーだ考察してきましたが、三歩の生死は物語に明確に描かれていないからこそ「ご想像におまかせします。」ということなのだと思います。
すべてを語らない余白がこの作品を完成させたなと個人的には思います。読者に想像をさせるのは一種の文学性を感じます。
山に詳しい人や、ファンの中には三歩が最後あんな無茶なことするはずがなくてガッカリなんて意見も見ましたが、私は個人的にこのラストは好きです。
自分はハッピーエンド信者なので、もちろん三歩生存説を信じたいのですが、死亡したという真実でも、「どこかで今でも元気に山を登っている気がする」という感覚を、読者も登場人物たちと共有できる良いラストだと思います。亡くなった方をしのぶとき、亡くなったことが嘘みたいでしばらく日常を過ごすと「あの人は元気で今頃過ごしている気がする。」と心のどこかで感じることがありませんか?
三歩が死亡している場合も考えると、その感覚とすごく似ている気がします。
個人的にはあってほしいハッピーエンド
個人的な気持ちとしては、ヒマラヤ遭難で視界が晴れ、なんとか奇跡的に下山できててほしいです。北アルプスからは去ったけど、世界の山を登り続ける登山家であってほしいですね。
コーヒーカップは一時帰国のときにナオタに怒られながらも新しく作り直したモノとかで、ラストのナオタがティートンへ来たシーンも先に三歩が山の中腹あたりでコーヒーを飲みながら待っている。だったら良いですね…
みなさんはラストについてどう思いますかね。とにかく、全部読み切った感想は、「よく、頑張った!」でした。三歩が今でも元気に山に登ってますように!
全話通じて人と山の息づかいが伝わるいい作品だった〜。登山に行ってみたいなという気持ちになりました。もちろん準備万全でね!
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